温故知新シリーズ14旧遊郭地帯を訪ねて…
大垣「旭遊廓」編
遊廓の名残をとどめる立派な玄関である。
現在も一般の住居として生活しておられるようだ
8人の嘆願によって
幕末期に誕生した遊廓
岐阜県大垣市は、岐阜県の中で岐阜市に次いで、県内2番目の人口を抱える市で、旧大垣藩が治めてきた歴史のある街だ。市内を流れる揖斐川や杭瀬川など、「水の町」としても有名で、かつては交易の拠点として栄え、また自噴する良質な地下水を生かした産業で発展してきた歴史を持つ。また、松尾芭蕉の「奥の細道」で結びの地としても有名で、風流で独自の文化を今に伝えている。
さて、今回はそんな大垣の遊廓についてのレポートということで、さっそく調べてみるとその存在は名古屋、大須のお茶屋や岐阜、加納などの旅籠屋に比べて歴史が新しいものといえる。「大垣史」(昭和5年 =1930年刊)によれば、従来、大垣藩は風俗の取締りが厳しい方針で、遊廓の類いについてはこれを許可してこなかったという。しかしながら、幕末期の慶応3年(1867年)の5月、遊廓を設ける動きが出てきた。
そのきっかけになったのは、「尼ヶ崎七人衆」と呼ばれる町人が連名で遊廓設置の嘆願を行ったことから始まっている。この「尼ヶ崎七人衆」とは、その昔大垣藩領主となった戸田家が摂州尼ヶ崎(現在の兵庫県尼崎市)より大垣藩へ封印された時に同行させられた町人7家のことを指している。今もその名前が残っているのだが、茶屋小市、八百屋源助、岩井市兵衛、河地善四郎、下里作五郎、上田久右衛門、久世次郎衛門、久保田与左衛門、以上の8名が中心となり「茶汲女」(遊女)の設置を嘆願した書物が残っている。
この嘆願を受けて、当時の町奉行と小原鉄心、菱田海鴎、江馬金栗らが協議の結果、嘆願を受けた3ヶ月後の5月になって、藩は船町瓶屋町を囲場所として、これら8軒に限り妓楼の建築許可を出した。これが、大垣における遊廓のルーツである。
なお、当時この許可の掟書には、茶汲女1人につき当分銀5分を徴収するとあり、高額な税金を課していたことがうかがえる。藩は建前上、許可の理由に「八人の者の困窮救済と宿益など」としていたが、この背景には、当時困窮していた藩の財政事情を補うものとしての意味合いが多分に含まれており、世相を色濃く反映していた。
明治5年に一時的に廃止
明治22年に再び復活
こうして幕末の動乱の中、産声をあげた船町瓶屋町の遊廓だったが、「新修大垣市史」(昭和43年=1968年刊)によれば、宿駅発展の都合により、新町東町にも遊廓が設置されて一時は相当な繁盛をしたものの、中でも「吉岡楼」が最も全盛を極めたが、明治5年(1872年)10月に廃止されている、とある。
その理由については、「大垣史」(昭和5年 =1930年刊)によれば、当時の岐阜県令、長谷部佳恕連の英断により、布告第295号をもって岐阜県下の遊廓を全て廃止し、娼妓を解放するというもので、移転したばかりの新町遊廓もこの対象に含まれていた。
しかしながら、その2年後の明治7年(1874年)には県庁所在地でもある岐阜市で金津遊廓設置のための嘆願書「遊廓改置願」が出されていることをコチラでもお伝えしている通り、建前上の戒告のようなものだったのかもしれない。
また、昭和2年(1927年)に大垣商工会議所が発行した観光案内ガイド「大垣」の巻頭を見ると、「大垣公園 御料理 吉岡楼」の広告があることからも、明治5年の布告で廃業したとは考えにくい。したがって「吉岡楼」が移転して営業を続けたか、あるいは別の形態で営業を続けていたことをうかがわせるのである。
そうした流れの中で、大垣の遊廓は再び復活を遂げることになる。明治5年の布告から17年を経た明治22年(1889年)(一説には明治25年)になり、お城の東にあった大垣藤江村に「旭廓」を開設するための工事が始まった。この時点で藤江村には田楽茶屋がすでに一軒が建っていたというが、何はなくとも再び大垣の遊廓が再スタートした。当時、妓楼は18軒、娼妓は310名がいたという。
濃尾大震災の被害と
空襲で壊滅的被害
大垣には殖産産業として、明治、大正、昭和にかけて多くの工場、企業が進出した。繊維産業、精密機械工業など、水利用の多い企業が多く、また、鉄道網の整備、東海道本線の重要なキーステーションでもあり、富国強兵を押し進める国の政策にも相まって、順調に発展を続けた。
しかし、迎えた明治24年(1891年)、大垣市にほど近い現在の本巣市根尾村を震源とするマグニチュード8クラスの大地震、いわゆる「濃尾大震災」が発生している。この地震で大垣市(当時大垣町)は甚大な被害を受けた。
その被害状況は全壊家屋が3,356戸、半壊家屋が962戸を数え、全半壊家屋が実に全戸数の93%を越えた。そのため家屋の下敷きになって死んだりけがをしたりした人が2,000人を越えた。大垣でも、岐阜などと同様地震に伴って町内の四方から火が出て、倒壊した家屋の下になって逃げ出せずに焼死した人も数多く出るなど被害をいっそう悲惨なものとした。おそらく旭遊廓の建物群もまたこの被害を免れることができなかったと想像するのである。
そして、大正期に入ると遊廓もまた復興を果たしており、大垣商工会議所の発行した「大垣」大正5年(1916年)版によれば、旭遊廓の妓楼15軒、娼妓167名を数え、「大垣」大正12年(1923年)版には妓楼14軒、娼妓120名に数を減らすものの、「大垣」昭和2年(1927年)版では妓楼18軒、娼妓310名に倍増しており発展をみている。
また、同書には当時の大垣における花柳界、芸妓置屋などの記録が残されており、昭和2年の時点では、その数56軒、芸妓213名と記載がある。どうやら、お城の近くにあった郭町と藤江町にあった旭廓は明確に区分けされていたようで、格式なども異なっていたようだ。
その後、旭遊廓は軒の増減を繰り返しながら営業を続けることになるが、戦中の資料が少ないためにはっきりしたことは分からない。しかしながら、昭和20年(1945年)3月2日を最初にB29による空襲が始まった。この年の7月29日まで、大垣市は計6回の空襲を受けることになった。7月29日の空襲では当時国宝の指定を受けていた市のシンボル、大垣城の天守閣をはじめ、中心部はほとんど壊滅的な状況であり、藤江町や郭町周辺もまたこの被害を免れることはできなかった。
現存している藤江町の旧遊廓の建物や郭町の置屋だった建物はこの時の空襲を免れたもので、大変に貴重な建造物である。
そして、戦後を迎えた大垣市。旭廓は「旭日園」と名前を変え、いわゆる赤線の中で営業を続けていたというが、こちらも当時の記憶をとどめる資料が乏しい。いわゆる特殊飲食組合として「旭日園」として再スタートしたわけだが、かつての娼妓は給仕婦と名前を変えふたたびお客を取り、昭和32年の売春防止法の施行後はあえなく消滅してしまったと思われる。この「旭日園」の跡地にも他の旧遊廓地帯と同様に転業旅館が散見されることから、転業して今に至るというのが道理であろう。
大垣の旧遊廓の建物を見る時、今の地方都市が置かれている状況が伝わってくる。産業、文化、地域振興、そして過去とのつながり。感傷だけではない、何か寂寥とした思いをそこに見いだしてしまうのだ。天災や戦争を経て消滅した遊廓が示唆することとは、まるで日本の地方都市における未来を表現しているように思えてならないのである。