東海MAN-ZOKUニュース創刊11周年特別企画
温故知新シリーズ3 岐阜「金津遊廓」の歴史
岐阜の旧遊郭地帯を訪ねて… 前編 幕末~明治、開業まで
現在、JR岐阜駅南口近くに70軒ほどのソープランド街がある。そう、言わずと知れた「金津園」であるが、今回はその「金津園」のルーツともいうべき、岐阜の「金津遊廓」についての歴史をひも解いていこうかと思う。まずは江戸時代から明治の開業まで。
旧「金津遊廓」のあった場所である
古くは江戸時代の
中山道の飯盛旅籠
このシリーズも第3回目ということで、今回は、岐阜の旧遊廓「金津遊廓」とその周辺の歴史を中心にお届けしたいと思う。過去から現在へと続く岐阜の性風俗の歴史。岐阜市の発展の原動力にもなったエピソードをさっそく紹介していこう。
まず、現在の岐阜市の遊廓、性風俗の歴史について調べてみると、そのルーツは中山道の要所、「加納宿」(現在の岐阜市加納八幡町付近)、「河渡宿」(現在の岐阜市河渡付近)等の飯盛旅籠屋(めしもりはたごや)にいた、いわゆる「飯盛女」にまで遡ることができる。
この裏付けは、「岐阜市史」の中に、明治4年(1871年)の「飯盛奉公人名録」として、「方県郡河渡宿美濃屋徳兵衛召抱人」と記された幕末期からの奉公人名簿が残されているので一目瞭然だが、興味深いのはこうした奉公人(飯盛女)たちの年齢で、下は11歳から上は24歳と、年齢的にも非常に若い女性だったことが分かるのである。
その後、こうした旅籠屋は明治6年(1873年)に施行された「貸座敷渡世規則」により、貸座敷業として規制を受けながら営業することになる。
「岐阜市史」によれば、明治7年(1874年)、「遊廓改置願」という文書記録があり、この文書には「加納宿村」にあった9つの宿の代表として、中川藤九郎という人物が、飯盛旅籠の営業に関して嘆願書を岐阜県参事宛に提出した内容を見ることができる。
また折しも明治7年(1874年)は、お隣の愛知県、名古屋・大須の北に「旭廓」が誕生し、こうした貸座敷業者を大いに刺激していた風潮もあったと思われ、この複合的、社会的要因が重なって、後に説明する「金津廓」誕生のルーツがこの「加納宿」の飯盛旅籠にあったのではないかと、思いを馳せるのである。
市制の施行と共に明治 21年遊廓設置
廃藩置県(明治4年・1871年)以降の明治6年(1873年)、岐阜県の行政施設は現在の笠松町から現在の岐阜市中心部へと移ることになった。
新たな県庁所在地である岐阜市は都市計画を進める中で、明治20年(1887年)頃には鉄道駅である「加納停車場の整備」や「岐阜公園の開設整備」など、大規模な公益事業が急ピッチで進められ、相次いで案件も持ち上がっていた。
こうした公益事業は、莫大な財源が必要となるため、岐阜市だけの財源では到底無理があったた。その財源不足を補う目的もあり、「遊廓設置の計画案」が持ち上がったとされている。
この計画案を草案したのは、当時の「上加納村」の有志だったというが、これらを裏付ける資料が「岐阜市史」の中にある。
それによれば、明治21年(1888年)7月、「上加納村美園町」の酒屋出身で、上京後に株で財を成したと言われる大矢富次郎氏と「上加納村」の坂井田民吉氏の両氏が「遊廓設置願」を草案し、この遊廓設置案を当時の五部落(岐阜町・小熊村・今泉村・稲束村・上加納村)の各有志代表たちが議論した。
その結果、大矢富次郎氏が所有していた土地「上加納村字高巌」(現在の西柳ヶ瀬商店街付近)に遊廓設置をするという計画をまとめたのだった。
この計画案は明治21年(1888年)8月6日付けで正式に「遊廓設置願」として、当時の岐阜県知事、小崎利準氏に提出された。
書面には当時の五部落(岐阜町・小熊村・今泉村・稲束村・上加納村)の各有志代表が連名で署名し、この遊廓設置により出る利益金を道路開設などの公益事業に充てるというという内容の規約なども盛り込まれていた。
そしてこの「遊廓設置願」を提出した10日後、明治21年(1888年)8月16日付けをもって、岐阜県知事より、正式に遊廓設置の許可が下りる。まさにこれが近代岐阜の公娼「金津遊廓」の誕生の瞬間である。
なお、この時の書面には「向十五ヶ年間聴許ス」と条件が明記してあり「金津遊廓」が15年間の時限的な許可であったことが分かっている。しかしながら、その後15年で「金津遊廓」が廃業した形跡はない。今回の取材では、この際の延長措置的な書面も資料も見つけることができなかった。
何はともあれこうして産声をあげた「金津遊廓」だが、許可が下りた後の動きは早く、その3ヵ月後の明治21年(1888年)11月には「金津遊廓」が開業する。その規模は当時の図面上によれば、総計約1834坪(6,052m)の面積を誇る遊廓であった。
というわけで、今回は江戸時代より明治の「金津遊廓」誕生までを紹介したが、次号ではその後の「金津園」誕生と現在へ至るまでの歴史をお伝えしたいと思う。
現在の岐阜市加納八幡町付近で
東海道と中山道の分岐点でもあった