マンゾクネット愛知 名古屋 裏風俗 研究所 温故知新シリーズ17旧遊郭地帯を訪ねて
【2010.4.27】

温故知新シリーズ13旧遊郭地帯を訪ねて…


名古屋・港区・稲永遊廓

歴史の流れに消えた名古屋を代表する遊廓

かつて名古屋市港区には「稲永遊廓」という名古屋を代表する遊廓が存在していたことをご存知であろうか? 
このシリーズの1(コチラ)でも触れたが、今回は大正8年(1919年)、公認の遊廓としてスタートした、
その稲永遊廓についてのレポート。

稲永遊廓門柱

遊廓時代に建てられたと思われる門柱。
現在は入り口が封印されて、当時の様子を
知ることはできない

発端は明治25年に可決した

大須・旭廓からの移転事業


 戦前、戦後にかけて愛知県には代表的な公認の遊廓がいくつか尾張地方、三河地方に存在していたが、明治25年(1892年)の2月に開かれた愛知県議会に於いて、名古屋の大須、熱田の両遊廓に加え、岡崎、豊橋の遊廓も当時の都市化していく社会的環境の変化や良俗保持の観点から、明治30年(1897年)を期限として、これら各遊廓を移転させる案件が可決された。
 こうして、都市計画の一部として港区と中村区への遊廓移転が進められて、大正10年(1921年)までには各遊廓は移転を終えた。この中で今回レポートする港区にあった稲永遊廓の移転当時の面積は1万6千300坪(53,790m2)ということなので、ナゴヤドームの約半分ほどの面積だったことが分かる。
 店舗の数は遊廓の開業時には14軒、娼妓は91名いたと「名古屋南部史」(昭和27年刊)にはある。また大正2年(1913年)には20軒、娼妓も128名に増加し、昭和8年(1933年)末には遊廓57軒、娼妓537名を数える有数の遊廓に成長していった。


潮の香漂う独特の風情で

中京遊廓の中で異彩を放つ


 この稲永遊廓のあった場所は昭和初期において、埋め立ても現在ほど進んでおらず、海辺に近接しており、浜風にのって潮の香りがする風情があったという。こうした港湾部であったため、遊廓の利用者は港湾関係の仕事の者が多く、一種独特の雰囲気があったという。
 先ほど引用した「名古屋南部史」によれば、当時の名古屋の遊廓は「中村遊廓」とこの「稲永遊廓」であったが、東京の遊廓に例えると、「中村遊廓」が「新吉原」のような雰囲気。つまり、近代的で洗練された趣があったといい、一方で「稲永遊廓」は「洲崎」か「品川」のような趣で、少しカジュアルな雰囲気があったという。 また、稲永遊廓の娼妓の特徴として同書には「気が利かない女が多いが、性質は概して端的で、丈は低いが肌は清らか皮下脂肪に富んだ肉感的な多かった」(元文ママ)とあり、当時の稲永遊廓の様子を伝えている。
 また、昭和3年(1928年)には年間の遊廓利用者が26万4千211人を数え、当時の金額にして68万5千183円が稲永遊廓で消費された。この金額は1人あたりの利用者に換算すると、2.59円ということである。ちなみに、中村遊廓の1人あたりの費用は同時期に4.26円とあるので、稲永遊廓の方がより安く遊べたということが言える。当時の物価を参考にして書き記すと、 カレーライス、ラーメンが10銭、ビール大瓶が1本で41銭、うな重が並で60銭、新聞が月極で1円、賃貸住宅の家賃の平均が11円50銭、教員の初任給が50円、旧帝大卒で三井物産入社の初任給が80円という時代であるから、それなりの遊興費用であったことが分かる。
 こうした中で時代はやがて戦争に突入し、稲永遊廓も次第にその輝きを失っていった。当時、周囲にあった軍需関係の工場の合宿所や寮として接収された楼も少なくなく、企業整理によって廃業を余儀なくされた楼も少なくなかったという。
 昭和19年(1944年)の12月には名古屋造船など、港区はB29による初空襲を受ける。その後もほぼ断続的に空襲は続き、昭和20年(1945年)の7月24日の愛知航空機永徳工場の空襲へ至るまでに港区だけでなく、名古屋城、大須観音、熱田神宮本殿、中区役所、熱田区役所、昭和区役所などなど、あらゆる名古屋市の主要な施設は空襲の被害を受け、名古屋市は焦土と化した。

港陽園時代の建物
現在はアパートとして利用されている
「港陽園」時代に建てられたと思われる建物

混乱の昭和20年代に

出現した港陽園について


 こうして大混乱のうちに迎えた終戦を経て壊滅状態だった稲永遊廓だったが、昭和21年(1946年)には更なる試練が待ち受けていた。同年の2月には明治から続いた公娼制度が廃止され、遊廓が公には認められない存在に変わってしまったのである。
 しかし昭和20年代の早い段階で、その代替というべき、「カフェー」や「特殊飲食料理組合」と言われる組合や稼業がすでに営業を開始していた。名古屋市中村区の「名楽園」(旧中村遊廓)や名古屋市中区の「八幡園」、そして旧稲永遊廓の業者が中心になって立ち上げたのが 「港陽園」(港区港陽町)の特殊カフェー組合で、実態は「娼妓」から「給仕婦」と名前を変えた女性が戦前の遊廓そのままにサービスを提供していた。昭和23年に施行された風俗営業法の前にはこうした特殊カフェーを取り締まる法律はなく、全国的にも同様の流れで、 昭和33年(1958年)の売春防止法の施行まで、いわゆる「赤線」地帯の中でその業態を維持していく。
 さて、この港陽園であるが、戦後間もなく稲永遊廓と色街であった港楽園と道徳方面の各業者が新開地、つまり地域開発、振興を目的に交通の便が良い場所を選んで設立したと、「名古屋南部史」にはある。昭和22年(1947年)末にはこの港陽園には23軒の特殊カフェー業者がおり、 給仕婦は105名を数えた。さらに翌年には25軒に増加し、給仕婦は155名に増加、昭和26年頃には80軒にまで増加し、給仕婦は300名におよんだという。しかしながら、先述した通り、昭和33年(1958年)には、売春防止法施行によって港陽園をはじめとした特殊カフェーは表舞台から姿を消すことになる。
 現在、この港陽園の跡地にはラブホテルや転業旅館、また当時の建物を利用したアパートなどが建っているが、高層マンションや近年の臨海地区開発のため、その面影は年々薄れつつある。

CHECK POINT
 かつてこの港陽園のあったほんの目と鼻の先に、2008年に経営破綻し閉鎖した「イタリア村」の跡地がある。非日常的な空間を提供した場所の成れの果てであるが、かつて戦前、戦後の一時期にやはり夢と一時の愉しみ、非日常的空間と時間を提供していた旧遊廓、港陽園に過ぎた日をそのイタリア村に重ねて、世の移り変わりと世相をそこに見出すのである。

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