東海MAN-ZOKUニュース創刊11周年特別企画
温故知新シリーズ2 大須観音から中村・大門へ
名古屋の旧遊郭地帯を訪ねて… 幕末~明治大正~戦前終戦まで
さて、前号では江戸時代初期、名古屋城築城の時期の遊廓から、享保年間(1716年から1735年)、七代尾張藩主・徳川宗春の時代の遊廓についてお伝えしたが、今回は幕末から近代、戦前、戦中にかけての名古屋の遊廓についてお伝えしていこうかと思う。
遊女と思われる美しい肖像画
大須観音北に出現
「北野新地」の繁栄
前号では、徳川宗春の時代、幕府の禁制政策により、「西小路遊廓」が元文3年(1738年)、わずか6年という短い期間で姿を消したとお伝えしたが、その後の名古屋の遊廓について、書いていこうかと思う。
例によって、この時代の遊廓についての記述は少なく、「中村区史」によれば、「西小路遊廓」の消滅後は私娼という形で、遊廓の跡地に名古屋弁でいう「百花(もか)」がこうした遊びの用をしていたというが、安政年間(1854~1859年)、玉屋町(現在の中区錦)の宿屋、笹野屋庄兵衛という人が上願し、許可されて、現在の大須観音の北にあたる一区画を「北野新地」と称して役者、芸人などを集めて、大変繁盛していたという。「北野新地」の遊廓の営業者は40余名(軒数)とあり、後の「旭廓」のルーツとなった。
やがて明治に入り、明治7年(1874年)、当時の県令鷲尾隆聚が「日出町近傍を遊女の区割と定め」とし、近代で初めて名古屋に公娼が誕生した。同年7月には「北野新地」の西南、園町以東を適当とし、明治8年(1875年)、堀川から東の5箇所に遊廓を移転させて、後にこの公娼区域一帯は「旭廓」と呼ぶことになった。明治38年(1905年)に「旭廓」は、娼家173軒、娼妓1618人を数え、「旭廓」としての全盛期を迎えた。
そして大正元年(1912年)、当時の知事深野一三は「貸座敷取締規則」を改正し、遊廓の営業区域を稲永新田(現在の港区)に決定。順次移転する計画であったが「旭廓」が稲永新田に移転する前にこの案件に絡んだ大疑獄事件が発生するのである。
この大疑獄事件の詳細はスペースの都合上、割愛させていただくが、その後この遊廓移転問題の疑獄事件は大正3年(1914年)6月、全被告無罪の判決により、一応の決着を見た。
指定された長寿庵。
壁面の女性は往年の面影を忍ばせる。
大疑獄事件が発端「旭廓」
の中村移転
その後の大正8年(1919年)、「旭廓」は愛知郡中村(現在の中村区)と稲永新田(現在の港区)への移転が決定。大正9年(1920年)から順次、大須の「旭廓」より移転が始まり、中村は「日吉」、「寿」、「大門」、「羽衣」、「賑」の五ヵ所(町名は現存している)を一廓として「中村遊廓」と呼称された。
大正12年(1923年)4月1日には全ての娼家が移転を終え、かつて水田や野菜畑が広がっていて農耕地だった中村に中京エリアを代表する一大歓楽街が誕生したのである。
また一方の、稲永新田(現在の港区)で認可が下りたもう1つの新しい遊廓は「稲永廓」と呼ばれ、熱田の伝馬にあった遊廓も移転したと記録がある。
両遊廓が開業して14年後の昭和12年(1937年)に開催された「名古屋汎太平洋平和大博覧会」の前後には「中村遊廓」は、娼家138軒、娼妓約2000人を誇ったとある。一説によればこの規模は、東京・吉原の規模をしのぐものだったという。 この頃、「オイ西行だ」といえば、中村遊廓へ行くことを指し、面倒なしきたりを簡略化した近代的遊廓として賑わった。
しかしながら、時代は戦争の時代へと突入し、やがて昭和18年(1943年)には「中村遊廓」も戦時体制に基づく企業整備を余儀なくされる。当時、総数が136軒あった娼家はわずか19軒、娼妓220人に縮小された。そして、度重なる空襲により、娼家の建物自体も55軒が焼失した。
ここまでが江戸時代から戦前、戦中までの名古屋の遊廓、つまり性風俗の歴史である。
思うところは色々あるが、特に今の名古屋の文化、例えば「見栄っ張り」と言われる部分は前号で紹介した徳川宗春の時代の影響がそのままつながっている気さえしてくるし、遊廓の取りつぶしの度に掲げられる質素倹約、風紀の取り締まりを美徳とする文化もまた然り。さらに博覧会の開催など、歴史は繰り返し、性風俗もまたその形を変えて生き残っている。そのことをしみじみと実感するのである。
なお、戦後から現在までの名古屋の性風俗の現代史については、あらためて資料を整理した上で、折りに触れてお届けしたいと思う。
松岡大正庵
こちらも名古屋市の都市景観重要建築物に指定されていて、現在はデイサービスセンターとして活用されている。
料亭・稲本
どこか異国風の情緒があり、当時の非日常的な空間を演出したのだろうか?こちらも名古屋市の都市景観重要建築物に指定されている。