マンゾクネット愛知 名古屋 裏風俗 研究所 温故知新シリーズ17旧遊郭地帯を訪ねて
【2009.12.14】

温故知新シリーズ7旧遊廓地帯を訪ねて…


風流な花柳界の栄枯盛衰…一宮の知られざる歴史

 7回目を迎えた歴史探訪シリーズだが、今回は西尾張地方を代表する都市、一宮市の知られざる歴史にスポットを当てていく。戦前、戦中、戦後と、一宮市の栄枯盛衰を映す鏡ともいえる、遊廓の歴史を今、ひも解いていく…。

現在遊廓のあった周辺

現存する旧遊廓の建物だがその隣は
現役で営業中のファッションヘルスだ

絶対的質素倹約で

旅籠茶屋は2軒…


 愛知県一宮市は市内の真清田神社にその名前が由来する。古くから、東海道や中山道をつなぐ交通の要所でもあり、繊維産業が盛んな地域でもあった。今回はその愛知県内で3番目の人口を誇る同市の旧遊廓についての歴史をひも解いてみる。
 まず、そもそもの遊廓の起源をたどってみると、中世以前からあったといわれる真清田神社門前の「三八市場」と呼ばれる市場が1つのキーワードになってくる。これは、同地で生産された綿織物と日用品の物々交換を行うものであり、現在も零細ながらその伝統が守られている歴史の長い市だ。
 しかし、調べてみると昭和14年発行の「一宮市史」によれば、この「三八市場」の発展に比べ、旅籠屋や花柳界の発展はそれほどでもなかったという。
 同書によると、藩政時代の尾張一宮は徹底した粗食絶対倹約主義であり、あらゆる贅沢を制限されていたという。また、同地では江戸時代の早い時期にはすでに織物産業が「家内制手工業」として確立しており、こうした収入源もあって、女手も貴重な労働力として重宝されたことから、貧しい農家であっても娘を旅籠屋などに質入れする必要がなかったこともその要因の1つだろう。
 また、それを裏付けるように、天保13年(1831年)の六齋市商人の書上によれば、当時の一宮の旅籠茶屋はわずかに2軒と記録があり、名古屋や岐阜と比較しても、寂しいものがある。まさに尾張一宮における質素倹約の徹底ぶりを垣間みる事ができる。


遊廓の開設運動は濃尾大震災が契機


 時代は廃藩置県を経た明治16年(1883年)頃。真清田神社の門前町にも旅籠屋が16軒ほどができた。また明治19年(1886年)の東海道線開通、鉄道駅の開業によって、駅前付近にも料理旅館などが建つようになった。
 しかしながら、明治24年(1897年)の濃尾大震災発生により、一宮市は甚大な被害を受け、市内の建物は壊滅的状況に陥った。
 直後、この震災の復興事業のため、全国から一宮へ集まってきた工匠人や作業人の遊興によって数少なかった、元々旅籠屋を営んでいた料理旅館は突如として急速に発展することとなる。
 またこれらに加えて、明治27年(1894年)に勃発した日清戦争へ出征、凱旋する兵士たちを歓送迎するため、ますますの発展をみることになる。
 こうして急速な発展を契機に当時の警察署長の注意もあり、料理業者の組合を組織する動きがあり、業者は「共盛組」と呼ばれる組合を立ち上げていた。これが、一宮市の遊廓開設への基礎になる。
 明治42年(1909年)「共盛組」は27軒を組織していたが、一宮市の発展とともに、新規の同業者も多く参入し、別の組合「栄信組」も新たに組織され、一宮の花柳界は活況を呈した。
 そして迎えた大正8年(1919年)、乱立する置屋や料理屋を風紀などの観点から、一廓の土地に集中するよう、愛知県令の発布があり、当時、「真澄連」「栄信連」「共進連」の各置屋の組合は紛争中だったが、翌年には和解し「共盛組」「栄信組」の料理組合を加えた五花交営連合会が結ばれ、花岡の地へと移転をしていくのである。


現在へとつながる花岡町の誕生秘話


 大正11年(1922年)4月1日、一宮市役所の東側、大江川沿いへ新たに花街が造成されて「花岡町」と命名された。
 5つの組合でスタートした花岡新遊地だが、料理組合の「共盛組」「栄信組」は解散し、新たに一宮料理屋業花岡組として再スタートした。
 ちなみに、昭和61年発行の「史録 いちのみや」(郷土出版社刊)によれば、大正末期から昭和初期の花岡の芸妓は600名ほどいたという。当時の一宮市の人口は約10万人というから、その賑わいは相当なものだったと想像にたやすい。
 しかしながら、昭和19年(1944年)戦争も終末に近づくにしたがって、花岡の街も次第に寂れていった。国家総動員法などにより、芸妓は軍需工場へとかり出されていった。そして翌年の昭和20年(1945年)7月13日と28日の深夜、一宮市はB29による空襲を2度にわたって受けている。この空襲で全市の83%にあたる10468戸の建物が被災し、まさに壊滅的な被害を受けた。
 終戦後の花岡の復興は思うにまかせず、進駐軍の貞操問題など、度重なる社会的な要因に翻弄されるようになる。
 この問題に取り組み、一宮の花柳界の再興に取り組んだのは、当時花岡町にいた森下賢一氏だが、尽力の甲斐なく、花柳界は復興を果たせぬまま昭和32年(1957年)、売春防止法施行のため、一宮の花柳界はその姿消す。
 現在の花岡は一宮市泉と地名も変わった。同地では、往年の名残を受け継ぐファッションヘルスや、転業旅館、料亭などが今も営業中で面影を残す。
 一宮の駅周辺~花岡にかけての周辺は繊維産業の衰退やライフスタイルの変化とともに様変わりした。かつての中心街、本町通り商店街も郊外型のショッピングモールに客足を奪われ、現在はまさにシャッター通り商店街だ。
 多くの遊廓、花街の消滅はその土地の文化をも同時に消滅させる力を持つ。それは単純な文化の善し悪しではなく、豊かさの喪失でもあるということを、忘れ去られた地方の旧遊廓地帯から痛感するのである。新たな文化はこの先、どのような形で出現するのだろうか?

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