温故知新シリーズ6旧遊廓地帯を訪ねて…
豊橋の知られざる歴史、軍都に咲いた大遊廓
東三河を代表する都市、豊橋市。今回の風俗歴史シリーズでは、同市の知られざる江戸時代からの歴史にスポットを当てる。
東海道の要所として、発展する中でどのようなことがあったのか、現場からレポート。
昭和20年の空襲で遊廓の建物は失われた
現在遊廓のあった周辺は静かに時間が流れる
5つの街道を結ぶ
まさに重要な宿場
現在も東海道の要所である愛知県豊橋市。その歴史は古く、現在の豊橋市域では、江戸時代の初期、東海道五十三次が整備された慶長6年(1601年)にはすでに「吉田宿」、「二川宿」の二宿が整備されていた。中でも「吉田宿」(現在の豊橋市札木町付近)は、本陣2軒、脇陣1軒を構える大宿であり、旅籠屋も65軒ほどが軒を連ねていた。
例のごとく、日本の性風俗の歴史をひも解く時、この「旅籠屋(はたごや)」が重要なキーワードになるわけだが、豊橋も例外ではなく「とよはしの歴史」(豊橋市/平成8年発行)によれば、この大宿「吉田宿」にも旅籠屋に飯盛女が置かれていた。同書によれば、文化12年(1815年)以降、一軒につき2人まで飯盛女を抱えることが許されていたといい、享和2年(1802年)に豊橋を訪れた滝沢馬琴によれば、吉田宿の飯盛女は100余人とあり、その盛況ぶりがうかがえる。
「吉田通れば二階から招くしかも鹿の子の振り袖が」という俗謡もあり、往年の華やかさを感じさせる一方で、当時の吉田宿にいた飯盛女は近郷の貧農出身者が多く、10年~15年の年季質入れの形で身売りされていたという事実も歴史の側面から見逃すことができない。
東田遊郭内にあった小さな神社
第15師団の誘致で
東田へ遊廓を移転
明治2年(1869年)、吉田藩は改名させられ豊橋藩となるが、明治4年(1871年)の廃藩置県により、周辺地域と合併して額田県となった。さらに明治5年(1872年)には名古屋県と額田県は合併し、現在の愛知県が成立した。
明治初期の豊橋は零細な蚕糸業が工業の中心であり、地元資本だけでは大規模な発展が望めなかったが、明治39年(1906年)頃、日露戦争後の富国強兵政策によって、1個師団が東海道筋に設置されることが計画された。
そこで、誘致の名乗りをあげたのが大口喜六市長を頂点とする「豊橋師団設置期成同盟会」であり、熱心な誘致運動の結果、明治40年(1907年)3月、陸軍は第15師団を豊橋に設置することを決定した。
「とよはしの歴史」によれば、大口市長はこの師団誘致の条件として札木・上伝馬にある遊廓を適当なところへ移転、拡張することを陸軍との間で取り決めしていたという。
このことから、遊廓移転が市会で可決されると知事は遊廓移転命令を出した。この命令によって、遊廓の業者は明治43年(1910年)8月まで認可を受け、瓦町と東田へと移転を余儀なくされたが、同年の8月までに移転を完了した業者は上伝馬12軒と札木2軒のみで、他の業者は市から借地するだけで、建築はせず空き地として放置していた。この状況に業を煮やした大口市長はすぐさま建築命令を出し、その甲斐あって、遊廓の形を整えていった。
大混乱の戦中戦後売防法で姿を消す
その後も軍都として順調に発展を続けた豊橋市。1925年(大正14年)には軍縮会議により第15師団は廃止されたが、廃止後も陸軍の関係施設が存続された。
1929年(昭和4年)発行の「日本遊里史」によれば、東田遊廓の軒数は50軒を数え、娼妓数は171名であったという。当時、名古屋、大須にあった旭廓は148軒。娼妓数は1497名ということなので、その規模が想像できるのではないだろうか?
やがて昭和10年代に入り、軍靴の音がいつもより激しくなり、本土空襲という事態にまで戦局が悪化してくると、豊橋市もまた戦時体制を強化せざるを得なくなった。東田遊廓もこの時代の波にのみ込まれていくのである。
昭和19年(1944年)、豊橋に新たな部隊や軍需工場が設置されることとなり、東田遊廓がその宿舎として徴用されることになった。また、一部の遊廓は現在の有楽町へと移転を余儀なくされたが、有楽町は元々、軍施設相手の歓楽街でもあり東田遊廓の移転組とこれらの歓楽街が1つになって「小池遊廓」として営業を続けたという。
しかしながら、迎えた昭和20年(1945年)、6月20日深夜未明、136機からなるB29が豊橋市上空に侵入。2時間に及ぶ波状攻撃で、遊廓群を含む市街地の70%が全焼、全壊。死者624名を出す大惨事となった。
ほどなくして終戦を迎えるが、混乱の最中、遊廓の復興はかなり早かったという。
町の活性化のため、遊廓の復活を推進する動きもあり、そのことで市議会も紛糾。戦後の混乱ぶりをうかがわせるが、結局、昭和27年(1952年)、現在の東田仲の町に「東田園」の名で新たな公娼街が誕生した。
しかし、そのわずか5年後の昭和32年(1957年)には売春防止法施行のため、この「東田園」も姿を消した。その後、残った建物で旅館や料理屋に転業した店も多かったが、豊橋の遊廓はこうして完全に消滅したのである。
というわけで、豊橋の遊廓の歴史についてひも解いてきたが、いかがだっただろう? 遊廓の消滅から半世紀以上が経過し、さもすれば「影の歴史」になりがちな分野だけに、こうして歴史に触れることは、風俗ファンとしてもロマンを感じるのではないだろうか。