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温故知新シリーズ4 岐阜「金津遊廓」の歴史
岐阜の旧遊郭地帯を訪ねて… 後編 開業~大正~昭和まで
さて、このシリーズも4回目を数え、いよいよ岐阜・「金津遊廓」について完結編。前号では明治20年頃、都市計画の中での近代的公娼、「金津遊廓」の開業ということで、各方面から大変期待されての出発だったとお伝えしたが、その後「金津遊廓」がどうなっていったかを今回はお届けしたいと思う。
手力の疎開先から移転したのがルーツ
開業から3年で…
濃尾大震災で壊滅
前号では江戸時代に栄えた中山道の「加納宿」などの旅籠屋の話や、当時の岐阜市が都市計画の財源確保のため、「金津遊廓」が明治21年(1888年)11月に開業したとお伝えしたが、今回はその後の「金津遊廓」について、書いていこうかと思う。
順風満帆でスタートしたと思われた近代的公娼「金津遊廓」。その繁栄ぶりは岐阜の町を南北方向につらぬく幹線道路「八間道」(見江寺町~加納停車場)の整備と相まって、年を追うごとに発展していったと言われている。
しかしながら「金津遊廓」に最初の試練が訪れるのにそれほど時間はかからなかった。それは、人災ではなく天災による被害だった。
明治24年(1891年)10月28日、午前6時37分、現在の本巣市根尾を震源とする、内陸直下型地震が発生した。いわゆる「濃尾大震災」である。マグニチュード8.0という、この地震によって岐阜市は全戸数の62%にあたる家屋が全、半壊するというまさに壊滅的な被害を受けた。「金津遊廓」に限っての正確な被害記録を発見することができなかったが、震災直後に撮影された写真は現存しており、それらを見る限り、再建の道を余儀なくされたことは想像に容易い。
時代に翻弄された戦争中の疎開移転
こうして数年のうちに「金津遊廓」は濃尾大震災からの復興を図りつつ、時代が大正モダニズムへと突き進む中、岐阜市も着実に発展していく。
明治44年(1911年)には路面鉄道「美濃電気軌道」の柳ヶ瀬(後の岐阜駅前駅)-今小町間が開業し「金津遊廓」には自ずと人が集まるようになった。
こうした岐阜市内のインフラが拡充すると、岐阜市は大正14年(1925年)に「大正天皇銀婚式奉祝国産共進会」という博覧会を開催する。近代的な博覧会としては県内初の開催であったため、「金津遊廓」もこの時期、多くの観光客で賑わっていたことは想像に容易い。
昭和4年(1929年)刊行の「日本遊里史」によれば、当時の「金津遊廓」の貸座敷数は59軒を数え、娼妓数427名を数えている。
ちなみに同時期の名古屋「旭廓」は貸座敷数171軒、娼妓数1497名、東京「新吉原」は貸座敷数228軒、娼妓数2362名ということなので、その規模がいかほどかお分かりいただけるであろうか?
そして迎えた昭和11年(1936年)3月には「躍進日本大博覧会」が岐阜市主催で行われている。まさにこの時期、戦前の最盛期を「金津遊廓」が迎えていたわけだが、この後から次第に「金津遊廓」は時代に翻弄されていくのである。
「岐阜市史」によれば、風俗営業への圧力が一層強くなったのは、日米開戦直後の昭和17年(1942年)初め頃。この時、名廓といわれた「浅野屋」が昭和17年(1942年)3月に戦時体制のため、廃業したとある。
「浅野屋」同様、この時期、戦時体制による企業整備によって廃業した「金津遊廓」の楼数はこの時10軒~15軒に上った。
こうした事情を背景に、昭和19年(1944年)前後には「金津遊廓」は「特殊飲食店組合」として、「東中島手力」(現在の岐阜市蔵前付近)へ疎開移転を余儀なくされる。当時「柳ヶ瀬」から「手力」へと移転した楼数は71軒、娼妓数は約350名と「岐阜市史」にはある。
そして迎えた昭和20年(1945年)7月9日深夜未明、約130機からなる米軍のB29が琵琶湖方面から岐阜市上空へ侵入。「金津遊廓」一帯もこの空襲により、一夜にして焼け野原と化した。
こうして「金津遊廓」の建物は開業以来、濃尾大震災後2度目の壊滅的な被害を受けたのである。
昭和25年に現在の「加納水野」へ再転
程なくして終戦を迎え、平和な世の中が戻ると「東中島手力」へ疎開していた「特殊飲食組合」内部から、もう一度「柳ヶ瀬」へカムバックして、往昔の繁栄を取り戻そうという機運が高まったと「岐阜市史」にはある。
しかし、様々な事情で移転先がなかなか決まらなかった。
そうしたところ、昭和25年(1950年)に「岐阜市加納水野」の地に白羽の矢を立て、同年10月15日には「金津園」と呼称を変更し、再デビューを果たす。
「岐阜市史」によれば当時の楼の総戸数は72軒。総経費は1億円といわれ、全国1の名廓を狙ったとある。
またこの時、争事を避けるため、楼の場所決めはクジ引きで決まったといわれ、各楼は同じ坪数であったということだ。
この後も時代は「金津園」をさらに翻弄していく。「加納水野」の地に移転してから7年後の昭和32年(1957年)12月30日、「売春防止法」の施行により「金津園」は解散式を挙行する。こうして、明治の時代から続いた長い遊廓の歴史に幕を下ろした。
ここまでが「金津遊廓」の歴史の全貌ということになる。
しかしながら、現在もご存知の通り、「加納水野町」にはソープランドとして、新生「金津園」が健在であるが、当然「売春防止法」施行以前の昭和32年(1957年)までと、それ以降の「金津園」の歴史は明確に区別されるべきだろう。
昭和33年(1958年)以降から現在につながる新生「金津園」の歴史については本紙が多くを語るまでもなく「トルコ風呂の隆盛」や、「ソープランドへの呼称変更」、「新風営法の施行」などの紆余曲折が挙げられるが、これは記憶に新しい部分なので今回は割愛させていただく。
さて、2号にわたり「金津遊廓」について書いてきたが、やはり現在へと脈々と流れる先人たちの文化を感じざるを得ない。
それは「岐阜市史」の中の一節、「遊廓の門前町が基礎となって成長発展したとものと見られる」という柳ヶ瀬繁華街について記述にも表われている。
風俗ファンとしては、これからも「金津園」が夢を与えてくれる場所であることを願わんばかりだ。なぜなら、岐阜の地で「金津遊廓」「金津園」が栄える時代はすべて平和の時代。翻弄したのは、天災、戦争と苦難の歴史に他ならないのだから。
現在の手力周辺。歴史を感じる