東海MAN-ZOKUニュース創刊11周年特別企画
温故知新シリーズ1 錦三丁目の知られざる歴史
名古屋の旧遊郭地帯を訪ねて…
おかげさまで、本紙も次号で創刊11周年。今回は「古きを訪ねて新しきを知る」ということで、今号と次号にわたって名古屋の遊廓の歴史をひも解き、歴史を織り交ぜながら紹介して行きたいと思う。第1回目は中区錦三丁目にあったという「飛田屋町廓」と中区松原、山王橋付近にあった「西小路遊廓」ついて。
「西小路遊廓」があったという…
錦周辺の歓楽街は
徳川家康が開祖?
今日、名古屋市内に300軒ほどあるといわれるヘルスや、中村区大門周辺にあるソープなど、尾張名古屋は風俗で持つと言われるほど、性風俗が盛んな地域であることは疑いようのない事実だが、やはり人に歴史があるように、性風俗にも歴史がある。
さて、前置きが長くなったが、名古屋の性風俗のルーツを探してみると、やはり「遊廓」というキーワードに行き着くわけだが、名古屋の遊廓についての文献は少なく、「中村区史」によれば、名古屋城造営の際、慶長15年(1610年)に、全国から呼び寄せた武士、大工、職人、商人などの慰労のため「飛田屋町廓」を徳川家康の許可で設置したと記述がある。
当時の名古屋の行政区画としては、行政施設にあたる現在の名古屋城周辺には武家屋敷、その南側にあたる錦三丁目周辺が商人や町人の商業区域として区割りされていた。そして「飛田屋町廓」は現在の錦三丁目付近にあったとされている。この「飛田屋町廓」付近は名古屋城造営以前からもこうした歓楽街の素地があった土地だったというが、今日まで揺るぎない歓楽街としての地位を確立していることから、尾張藩の首府が清洲から名古屋へと移る過程を経て、その後の繁栄の基礎がこの「飛田屋町廓」にあったことをうかがい知ることができる。
しかし、質素倹約を旨とする初代尾張藩主、徳川義直は名古屋城が落成した後、もはや遊廓は不要とし、風紀の乱れを嫌い、この「飛田屋町廓」を厳禁した。こうして「飛田屋町廓」はその姿を消したという。
吉宗を強力に意識徳川宗春の時代…
その後、名古屋の遊廓が再び栄華を極めるのは、享保年間(1716年から1735年)、七代尾張藩主・徳川宗春の時代といわれている。それ以前には明歴3年(1657年)に「熱田に遊里が興る」とされるが定かではない。宗春の思想、政策については近年、近代史でも見直されつつあり、中でも当時の幕府、八代将軍、かの徳川吉宗が行ったいわゆる「享保の改革」=「質素倹約」路線を強力に対抗意識したといわれる独自の「自由経済政策理論」によって、この時期、尾張藩は繁栄を極める。しかし、こうした派手な贅沢路線はすぐに将軍家に伝わるところになり、締め付けが一層厳しくなったそうだが、この宗春の政策により名古屋の遊廓はこの時代に復活を果たしている。
「中村区史」によれば、「享保の大飢饉」の最中、享保17年3月(1732年)に現在の山王橋周辺(現在の中区松原、堀川周辺と思われる)に「西小路遊廓」が置かれていたといい、その後、旧中区飴屋町(中区上前津周辺)や旧中区葛町(中区松原公園付近)、にも相次いで遊廓が置かれた。しかしながら、先述した通り、幕府からの締め付けが厳しくなり、元文元年(1736年)に端を発した禁制政策により、「西小路遊廓」は元文3年(1738年)、わずか6年という短い期間で姿を消した。遊廓を取りつぶした後にはいわゆる私娼が立ったという。
というわけでここまで、18世紀までの名古屋の遊廓についてお伝えしたが、次号では19世紀以降、幕末から明治にかけての遊廓についてお伝えしたいと思う。