温故知新シリーズ16旧遊郭地帯を訪ねて…
四日市編
港町に栄えた花街
東海道と伊勢道が合流、分岐する重要な街道筋の町である三重県四日市市。
そんな同市にもかつて港町ならではの風流な花街、遊廓が存在していた。
今回は同市にスポットを当てる。
このあたりが遊廓などの花街だった旧「南町」の
周辺に当たる
江戸時代中期にはすでに
飯盛女の存在があった…
三重県四日市市は、鈴鹿山脈から伊勢湾を臨む人口31万人規模の都市である。古くは京に通じる東海道の「四日市宿」でもあり、伊勢神宮へと通じる伊勢道との分岐点でもある重要な街道筋の宿でもあった。
こうした事情から交通の往来が絶えることのなかった同地では、やはり他宿同様に旅籠屋の存在があり、また後の遊廓につながる「飯盛旅籠屋」の存在が、『四日市市史』(1930年版)によって書かれている。
同書によれば、寛延3年(1750年)の諸雑記中に、西町孫八という者が隠れて遊女宿をしていたことがばれて、四日市宿を追い立てられた、という記事を見ても分かるように、すでに江戸時代には非公認のこうした旅籠屋の存在があったようだ。
その後も度重なる取締りや飯盛女の人数の制限が加えられたにも関わらず、容易にその数が減少することはなかった。
また、この旅籠屋がどこにあったのかというと、東海道筋には「南町」と「北町」とその西の「久六町」にあったといわれている。それらを裏付けるように、同書によれば、弘化3年(1846年)に調査した「飯売女抱旅籠軒数」は次のようにある。
「南町」の旅籠屋数50軒、内「売女一人抱」が4軒、「売女二人抱」が23軒、「売女三人抱」が9軒、「売女四人抱」が6軒、「抱えざる家」が8軒と、その実態を伝えている。
加えてこれらの旅籠屋が興隆したのは、江戸時代を通じ、60年周期で起こったといわれる「おかげまいり」=「お伊勢参り」の流行により、伊勢神宮にはその都度、数百万規模の人の往来があったこともその要因として挙げられる。
「四日市宿」もこうした恩恵を受けて隆盛したことは容易に想像できるのである。
公娼制度の施行と三花街の隆盛
四日市宿においても、江戸時代から各地に脈々と受け継がれていた飯盛女の存在は、明治5年(1872年)のペルー船、「アリア・ルーズ号事件」に端を発する国際世論の非難の対象にもなり、頭を抱える存在であった。
こうした流れの中で明治政府は「太政官布告295号」を公布した。この公布により、全国の娼妓芸妓年季奉公人の一切の身代金を棒引きにし、貸借訴訟は取り上げないという内容の事実上の「娼妓解放令」が下され、四日市宿でも娼妓の解放が行われた。
四日市の遊廓業者は、この娼妓解放令の公布後、数名がこの解放令施行の延期を嘆願しているが、翌年には明治政府が「貸座敷渡世規則・娼妓渡世規則」を定めたため、地方官庁の公認のもとに公娼制度を復活させ、解放令以前のような業態へと戻っている。
その後は紆余曲折を経て「南町」、「北町」、「高砂町」の三花街は旧来通りの営業を続けたようで貸座敷業者は35軒を数えた。ちなみに、明治6年(1873年)当時から、四日市きっての繁華街は「北町」、「南町」であり、置屋や揚屋の他、
すき焼きなどを食べさせるお店もあり、ハイカラで流行の最先端を行っていた。また、格式のあるお店では一見客は入れなかったと、『四日市市史第五巻(平成7年版)』にはある。
同書によれば、「西新地」周辺には、呉服屋や仕立て屋、染物屋、しみぬき屋、下駄屋、足袋屋、風呂屋や質屋までもあり、花街とその周辺で遊ぶための身支度を整えることができたとある。
これは、四日市に旅行者が多いことや、四日市港の開港で寄港する船員などが多く、こうしたニーズもあって発展したという裏付けでもあり、四日市の地域性を表している。
ちなみに「高砂町」の花街は明治8年(1875年)に誕生した新しいエリアであり、四日市港の開港と関係が深い。その様相は東京の吉原遊廓を模したといわれ、かつてないほどの大規模を誇ったが、明治9年(1876年)の「伊勢暴」により花街は焼失してしまった。
その後、遊廓は「南町」、「北町」で再興し高砂町でも再興した。これ以降、「北町」、「南町」の遊廓を「高」の遊廓と呼び、高砂町の遊廓を「浜」の遊廓と呼ぶようになった。
さらに時代は昭和に入り上記の三花街の他に、富田の地に新しく「住吉町」の花街の開発が始まった。これは、昭和4年(1929年)から昭和6年(1931年)まで、富田署の署長がまとめ役になって進められたものだが、善太新田の一角に朝明川から線路を敷いて、
埋め立て地を造成するという大掛かりな開発だった。
この開発で生まれたのが「住吉町」であり、置屋、料理屋、遊廓が一箇所にまとめられた。
遊廓の「朝田家」に当たる。
格子窓など当時の趣のある雰囲気を伝えている
戦前は名古屋からの上客も多数
空襲により花街は全焼
ここで港町、漁港として栄えた四日市と遊廓を結びつける興味深い話を紹介しよう。
前述の『四日市市史第五巻(平成7年版)』によれば、「祝い事と芸妓・娼妓」の記事として、次のようにある。
「漁師は漁船を手に入れると、フナオロシ(船下ろしの祝い、進水式)に芸者を揚げることが多い。戦前は打瀬船一艘の値段が昭和初年頃は千二百円であった。
漁師として生まれたからには漁船を持ちたいというのが多くの漁師の願いであった。~中略~当時は娘一人が苦界に身を置けば船一艘は買えた。そうして娼妓となる女性が漁村にもいたのである」
何とも皮肉な話ではある。娘を質入れし、娼妓、芸妓の水揚げする気持ちはいかなるものであったのか。そこに独特の文化や風習を見る思いがする。
また、景気の良い時分には、名古屋からの上客も多かったという。これは四日市の花街の方が交通費を足しても名古屋より安価で遊べたということも一因といわれている。
しかしながら、時代は戦争の時代へと突入し、迎えた昭和20年6月18日深夜未明、89機からなるB-29の編隊が四日市市上空に侵入。約1時間におよぶ爆撃により、市街地の35%を焼失し、約800名の人命が失われた。
「海軍第二燃料廠」などの重要な軍事施設が四日市にはあったために、その後も8月15日の終戦までに合計8回の空襲を受けており、ほぼ市街地は壊滅。花街もまた焼失してしまった。
時代の流れに翻弄…戦後の芸妓連と置屋
昭和20年(1945年)6月からの空襲で、四日市市は壊滅的な被害を受け、ほどなくして終戦を迎えた。戦前にあった芸妓連、すなわち置屋の組合であった「南北連」は復興しなかったが、
もう一つの芸妓組合「可祝連」は空襲の被害を受けながらも、翌年には復興したと『四日市市史第五巻(平成7年版)』にはある。
「可祝連」については、敗戦後に東住吉町の西の外れにあった元官庁の空き地を買って、小さいながら検番を復活させた。この時には疎開をしていた芸妓20名が戻ってきたというが、
その後、昭和40年代に入って、芸妓の志願者もめっきり減り、お座敷数も減少。昭和50年(1975年)頃には、検番も売却。昭和52年(1977年)に最後の組合長が引退するまで運営されていたという。
戦後の芸妓組合に関しての資料は今回見つけることができたが、遊廓についての資料は発見することができなかった。現在、四日市で営業を続けるソープランドとの関係性についても、はっきりした話をうかがうことはできなかった。
四日市市といえば、高度成長期の昭和30年代に入り先述した旧「海軍第二燃料廠」が民間に売却され、石油関連施設が林立する臨海工業地帯へと発展を遂げた。だが、その公害として
「四日市ぜんそく」などの社会問題を長年抱えてことで全国での知名度も上がったことも否めない。
そうした歴史の裏側で、四日市という地域で花街や遊廓が興隆していたことも確かな歴史の事実なのである。