温故知新シリーズ15旧遊郭地帯を訪ねて…
旧赤線地帯
名古屋・大曽根「城東園」、岐阜・墨俣「夜城園」他
戦後の一時期、昭和20年代から30年代初めにかけて、かつて遊廓だった一帯は「赤線」と呼ばれるようになった。この赤線地帯は1958年(昭和33年)の「売春禁止法」完全施行によりこの全国から姿を消していく。かつては全国にこの赤線地帯があったのだが、今回はこの東海エリアに現存する旧赤線エリアの建物とエピソードを紹介する。
隣は現役のヘルス店だ
戦後の占領政策から
赤線エリアが誕生…
そもそも「赤線」とはなんであろうか? これは1945年(昭和20年)にまでその歴史を遡ることができる。その年の8月15日、日本は長い戦争に終止符を打ち、その直後から連合軍による占領政策がスタートした。その占領政策では、それまで300年以上に渡って続いた公娼制度もその対象になり、日本政府に対してGHQ(連合国総司令部)はこの公娼制度を廃止する要求を1946年(昭和21年)1月に出している。その根拠は、当時前借り金によって女性を人身売買するという遊廓の習わしが民主政策、人道主義に反するというのが主な理由だった。
当時、この廃娼政策には様々な論議が巻き起こったが、1946年(昭和21年)1月15日には、東京の旧遊廓の貸座敷業者がGHQの公娼廃止の通達を前に、「娼妓廃止」を決定している。
一方、GHQは1月21日覚書として「公娼廃止」の通達を日本政府にしている。これを受けて、日本政府は2月2日に「内務省令第三号」をもって、これまで公娼を取り締まっていた「娼妓取締規則」その他の関連法規すべてを廃止。事実上、江戸時代以前、明治期を経て脈々と続いてきた公娼制度が廃止された。
その後、3月1日にはこの公娼廃止により転向せざるを得なくなった業者や娼妓のため、従来の遊里、遊廓17ヵ所に「特殊喫茶店」が暫定的に認められた。
この時、認可を受けた旧遊里、遊廓のあったエリアは特別区域とされ、取締対象として警察当局が地図上にエリアを識別するのに赤線で囲んでいたために「赤線」という俗語が生まれたともいわれる。
ともあれ、戦後の混乱期、それまでの価値観が180度変わるようなことが次々に起きる中で、公娼制度もまた廃止されて「遊廓」は「特殊飲食街=特飲街、赤線」と名前を変え「娼妓」は「給仕婦」と名前を変えた。
「名楽園」「城東園」「八幡園」
「新陽園」など各地に特飲街出現
一方、東海エリアに目を向けてみると、同時期に特飲街が誕生しているが、やはり旧遊廓や花街だった場所がその名前を変えて営業していた。
当時の「東海特殊カフェー連盟」の加盟者を見ると、戦前、東海エリア最大の遊廓だった「中村遊廓」は「名楽園」(名古屋市中村区)と名称を変更している。
この他にも名古屋市北区の「城東園」や名古屋市中川区の「八幡園」、一宮市の「花岡園」や東春日井郡の「曳馬園」、瀬戸市の「陶華園」、丹羽郡の「櫻楽園」など、戦前は公認遊廓ではない花街であった場所が特殊カフェーに加盟していたことが分かっている。
岐阜県でも岐阜市の「国際園」や「金津園」、大垣市の「旭日園」、多治見市の「西ヶ原」など旧遊廓のエリアに加えて、墨俣町の「夜城園」なども加わり営業をしていたことが分かっている。
発展した大垣市(旧安八町)・墨俣「夜城園」。
ここも戦後は「特飲街」だったという。
昭和33年「売春防止法」が
本格的取締の発効を開始
そもそも、この「特殊カフェー連盟」であるが、それまでの流れを見てみると非常に興味深い流れがある。
まず、1945年(昭和20年)8月15日の終戦直後のわずか3日後、8月18日に内務省が「外国軍駐屯地における慰安施設設置に関する内務省警保局長通牒」を各県に発令した。
そして、8月26日には接客関係業者、料理組合などの業者を招き、「平和と秩序維持のため進駐軍慰安所設置」のための協力を要請、翌日の27日には「特殊慰安施設協会」=「RAA:Recreation and Amusement Association」の名で、東京の大森に「小町園」という慰安所を開業している。
この時の動きをドキュメンタリーで綴った「敗者の贈り物(特殊慰安施設RAAをめぐる占領史の側面 」(ドウス 昌代著 講談社文庫) には、「政府は国体を護持し民族の純血を守る防波堤として、占領軍用特殊慰安施設協会(RAA)の設置を急遽、指示した」
と、その事情と経緯が詳細に記されている。どうあれ終戦後わずか2週間で占領軍向けの慰安所を開業させたことは事実で、このRAAはまたたく間に全国へと広がりを見せた。この時の流れが先述の「特殊カフェー連盟」へとつながっていく。
RAAの最盛期には、全国で7万人もの女性がこの「国策慰安所」で働いていたといわれたものの、その後1946年(昭和21年)1月21日、先述したGHQ最高司令官アーレン大佐の名で「公娼廃止」の通達が下され、廃止されている。
その後は第一章でもふれた通り、暫定措置としたこれら「国策慰安婦」の転向期間を定めて、「特殊喫茶」「特殊カフェー」を認めた上で赤線地帯が全国各地に出現したのである。
この昭和20年代の前半は戦後の混乱期であり、終戦直後の1945年(昭和20年)の9月にはすでに各地で街娼が出現している。当時は超インフレに加え、就職難、食糧難などあらゆる面で国民生活は窮乏し、物資も欠乏した時代であったため、生活苦から私娼になるものも多かった。
かつて瀬戸にも「陶華園」という
特飲街があった。
「こんな女に誰がした」とは昭和22年当時の流行歌の一節であるが、まさにこの歌に代表されるように、普通の女性だった人が娼婦になるといった具合に、時代の嵐に翻弄され飲み込まれる時代でもあった。
生活のためには食べねばならず、食べるためには働かなければならない。働くためには職を求めねばならず、さりとて職がうまくみつからない。このような悪循環に陥る人々も多く、まさにこれは敗戦文化である。と「名古屋南部史」(1952年(昭和27年)刊)にはある。
これは名古屋に限った話ではなく、当時の日本全国のどこでも起きていた社会現象であるし、特殊カフェーにも入れず「パンパン」と呼ばれる街娼や私娼になる女性も少なからずいた。
この後、時代が平和と落ち着きを取り戻しつつある中で、こうした旧遊廓、特殊カフェーを取り巻く環境は厳しさを増していく。1948年(昭和23年)9月には「風俗営業取締法」が施行され、翌1949年(昭和24年)5月には東京都で「東京都売春取締令」が制定。1954年(昭和29年)5月には議員立法「売春禁止法案」が提出され、1956年(昭和31年)5月「売春防止法」が成立。実施は翌1957年(昭和32年)4月1日からだったが、取締の発効は1958年(昭和33年)4月1日からであった。
こうして、日本から「赤線地帯」は姿を消した。