温故知新シリーズ12
知られざる名古屋の風俗裏話
歴史に埋もれたおもしろ小話
ここから遊覧船が毎晩のように繰り出された
日々もあったと考えると感慨深いものがある
船遊びも盛んだった
熱田・保田沖や呼続浜
熱田神宮、七里の渡し、東海道最大の宿場町だった「宮宿」。現在の熱田区伝馬町、神戸町周辺がその区域にあたるが、当時はこの周辺から桑名へ海路で渡るルートがメインだったために、人や物がこの地に集約される一大拠点であった。
人の集まる場所には多様な文化が生まれるものだが、この熱田でも例外ではなく、江戸時代中期には熱田を起点とした遊船業が盛んになったと、「名古屋南部史」(昭和27年刊/名古屋南部史刊行会)にはある。
その様相はというと、保田沖(現在の港区築地海岸の沖合)や呼続浜(現在の名古屋市南区)あたりまで船で繰り出し、芸妓や酌人、仲居や百花(もか)など、客の要求に応じるための仲介業まで現れるなどして、大変に繁盛していたようだ。ちなみに百花(もか)とは当時の尾張弁で、私娼のことを指す。さしずめ、船上の乱痴気騒ぎを江戸時代の人々は楽しんでいたようだ。
シケなどで、海が荒れている時には貸茶屋や貸座敷が用意されて、その延長上に寄席や芝居小屋、見世物や遊覧所、遊戯所が出現したという。そうした遊び客には食事も必要となるために、芝居茶屋や飲食店、料理店、中にはなんと、晩春から初秋にかけては氷店まであったというから驚かされる。
現在も大須演芸場など古い名古屋文化を
継承する門前町だ
現在よりも大らか!?
男色専門茶屋も存在
名古屋・大須観音の北側には江戸時代の後期、安政年間(1854~1859年)、玉屋町(現在の中区錦)の宿屋、笹野屋庄兵衛という人が上願し、許可されて、現在の大須観音の北にあたる一区画を「北野新地」と称して役者、芸人などを集めて、大変繁盛していたという。この「北野新地」は40余名(軒数)とあり、後の「旭廓」のルーツとなったというが、この中には男色専門のお茶屋さんがあったという。
「新修名古屋市史」によれば、男色、すなわち男娼は当時「野郎または影間(かげま)」と呼ばれていたといい、大須の門前町には「布袋屋」という野郎宿、すなわち男娼専門の宿があったという。
元々は貸座敷の芝居の弁当を出していたという主人、伊兵衛という人物がこの男娼専門の宿を始めたという。この他にも大須には数軒の男娼専門宿があったが、赤塚(現在の名古屋市東区周辺と推察される)には「淀屋」というお茶屋があり、富士見(名古屋市中区)にも二軒、梅香院(名古屋市中区橘周辺)の門前にもこの野郎宿があり、乱立とまでいかずとも、日常的にこうした男娼の文化があったことをうかがわせるのである。
元文年間(1736年から1740年まで)期間にはこれら野郎宿は取締りの対象になり、表舞台からは姿を消したようだが、大須の大光院の南側の屋根には、菱の紋を掲げた家があり、これが取締り前の影間茶屋にあったものと言い伝えがあるようだ。
ちなみに、影間(陰間とも)は全国に点在していた。江戸では湯島天神も門前や日本橋の芳町、大阪は道頓堀の周辺にそうした影間茶屋が存在していた。