温故知新シリーズ11旧遊廓地帯を訪ねて…
名古屋・中川・八幡園編
歴史の流れに消えた名古屋の色街
この温故知新シリーズも11回目ということで、今回はあまり知られていない現在の
名古屋市中川区尾頭橋付近にあった色街、八幡園についてのレポートをお届けしよう。
壁面にモザイク調のタイルとレトロな
丸窓が往事の雰囲気を想起させる
熱田神宮と名古屋城の
中間地点に当たるお茶所
現在の名古屋市中川区尾頭橋付近に「八幡園」という色街があったことをご存知だろうか? JR関西線の尾頭橋駅とナゴヤ球場に挟まれた一帯にその色街があったわけだが、そのことを知る人は名古屋在住の人でも少ないのではないだろうか?今回はその八幡園についての興味深い文書を発見したので、併せて紹介していきたいと思う。
八幡園のあった旧八幡村付近は古くから津島街道の東端にあたり、また南北方向には熱田神宮と名古屋城を結ぶ重要な街道筋であった。特に熱田から名古屋城へと向う途中にはちょうど境界線上にあったために、お茶所として発展してきた歴史がある。中には休憩だけではなく、旅籠屋を営むものも少なくなかったという。その旅籠屋の中に飯盛女を置く者も現れ、半ば自然発生的に色街が形成されてきたと推測できるのである。
大正6年に組合を結成
紆余曲折を経て隆盛
こうした流れの中で正式に八幡村長の認可を得た料理屋兼芸妓置屋が出現したのは、大正6年(1917年)のことで、「名古屋南部史」(名古屋南部史刊行会:昭和27年刊)によれば、当時その軒数は10軒、芸妓13名であったといい、「八幡料芸組合」としてスタートした。その後、大正10年(1921年)このエリア一帯が名古屋市に併合されるにあたり、兼業を許されなくなったので同組合は、料理組合を解散し、料理業者は「八幡料理業組合」を結成。芸妓置屋業者は「八幡連芸妓置屋組合」を設けたと、同書にはある。この時、料理屋は10軒、芸妓置屋業者が14軒、芸妓32名になったという。当時の八幡園周辺の様子というのは、楼の二階から田園を眺めることができたという。
そんな中で鉄道線が間近にあったために、その軋音が轟々と鳴り響き、古くからの宿場町の雰囲気と、夜な夜な鳴り響くお囃子が入り交じる一種奇妙な色街であったと伝えられている。こうして、昭和初期には繁盛していたという八幡園だが、昭和7年(1932年)頃になると、業者間の紛争が起きていくつかの業者が分裂してしまった。その後、各組合は反目を続けたようだが、それを見かねた当時の中川警察署長、小林庄吉が仲裁に入る形で昭和16年(1941年)、各組合は再び手を結ぶ形となった。
当時、料理業者は77名が加盟し、芸妓置屋業者は30軒を数え、芸妓は153名に増加していた。この頃の八幡園のサービスを伝えるところで、八幡園で遊んで朝帰りをする客には、無料で自動車の帰送サービスをするなどの徹底ぶりで、他の色街と差別化を図っていたというから興味深い。
苦難の戦中戦後時代
売防法施行で消滅…
八幡園が最盛期を迎えた頃、料理屋は76軒、芸妓置屋は43軒、芸妓は400名に達する発展ぶりであったが、時代は戦争の時代を迎え、昭和18年(1943年)12月には企業整備によって、廃業を余儀なくされる業者が続出した。わずかに残った業者は特殊飲食店として、当時の中村遊廓や稲永遊廓から移転してきた業者と合同で開業。この時初めて「八幡園」と称した。
昭和19年(1944年)12月に一周年を迎えた時、八幡園は業者120軒、園妓594名を数えたというが、昭和20年(1945年)1月3日の空襲では38軒の置屋が全焼の被害を受け、3月12日の空襲では66軒の置屋が全焼し、16軒を残すのみとなったが、3月19日の空襲によって、僅か1軒を残すのみで他は全焼してしまった。この一連の空襲で亡くなられた方の慰霊碑が西古渡神社境内にあり、その歴史を今に刻んでいる。
終戦後間もなく、八幡連、共立連、稲永遊廓の関係者が集まり、再び八幡園が復活した。その足取りは早く、昭和22年(1947年)正月には業者58軒、給仕婦170名を数えたという。折しも昭和23年(1948年)には中日ドラゴンズ(当時名:中部日本ドラゴンズ)の本拠地として現在の名鉄山王駅近くにナゴヤ球場が開業して、ますます人を呼ぶ地区へと発展していった。しかしながら、その10年後の昭和33年(1958年)には売春防止法の施行、赤線の廃止により、八幡園はその歴史に終止符を打つ。
それから52年が経過した現在、旧八幡園付近は都市高速の建設が進み、大型のショッピングセンターも出現。その周辺では、昔ながらの商店街も健在だ。街は新幹線、JR、名鉄と相変わらず鉄道の軋音と江川線の車の喧噪の中にあるものの、現在もかつて楼だった建物が現存しており、そこに生活する人もいる。そして、取り壊された楼の場所には新しい高層マンションが建つなどしており、まさに周辺一帯は様変わりしたが、八幡園にほど近いナゴヤ球場もまた、平成9年(1997年)ナゴヤドームの開業により、新旧交代を果たし、時代の移り変わりを象徴的に映し出している。
かつて古の人が書いたように、新旧が入り交じる雑多な印象が今も旧八幡園にはある。今、この地から見える未来には何が見えるだろう?