温故知新シリーズ10旧遊廓地帯を訪ねて…
熱田編
東海道の名所に隠された
遊女の歴史を紐解く…
名古屋の旧遊郭といえば、以前に取り上げたことのある、「旭廓」や「中村遊廓」が代表的だが、
今回、歴史を紐解いているうち、意外な事実を発見した。熱田神宮や七里の渡しなどで有名な
旧東海道沿いの熱田にいたといわれる「熱田の遊女」に関する記述である。さっそく紹介しよう。
丹羽家住宅は幕末に建てられた脇本陣格の
旅籠屋で往事の雰囲気を伝えている
寛政11年の頃には
遊里が誕生していた
「宮宿(みやじゅく)」の名前で知られる、現在の熱田神宮周辺は江戸時代の以前より交通の要所であり、東海道の中で最も大きな規模を誇った宿場町であり、熱田神宮の門前町でもあった。
「新修名古屋市史」大正4年(1915年)刊によれば、熱田に遊女が置かれたのは、二説あると記述がある。その一説は寛政12年(1800年)の頃、「熱田新田」を開くにあたって、築地に「オカメ」と
呼ばれる遊女を置いたことが始まりであるとし、もう一説としては寛政11年(1799年)、中島に縫針女を置くのを許されて始まり、享和年間(1801~03年)には焼失して廃業したという記述がある。
いずれにせよ、熱田の遊里は1800年頃には存在していたようだ。
「オカメ」にまつわる
興味深い記述を発見
続いて、熱田の遊女について目を向けてみると次のような記述が「新修名古屋市史」に見られる。「オカメとは当初醜婦多かりしより、いわゆる阿亀の面の如しとて、
予備習はせりしまるべし俗謡に、~宮の伝馬町に新長屋が出来て生きた阿亀が袖を引く~」とあり、何とも熱田の遊女は不名誉な評価を受けていたようだ。
ちなみに「阿亀の面」とは、例のお多福の仮面、丸顔で鼻が低く、おでこでほおの高い女性を指していると思われる。その後も熱田ではこの「オカメ」という俗称が
遊女を表す言葉になったといわれており、もしかすると今に伝わる「日本三大○○の産地」という不名誉な名古屋女性に対する俗説も実は江戸時代、
交易の一大拠点であった、この熱田宿から発信されたものではないかと、思いを馳せるのである。その後、文化年間(1804年~17年)において熱田宿の旅籠屋は隆盛を極めていく。
そんな中で文化3年(1806年)、伝馬町、神戸町、築出町等の旅籠屋に各2名ずつ飯盛女を置くことが許されるようなった。基本的に遊女は宿に抱えられる存在ではあったが、
宿泊客の求めに応じ、他の宿へ行くこともあったという。しかしながら、文政年間(1818年~29年)に入ると、熱田宿には芸子や酌女、百花(もか)が流行するようになり、
遊女、つまり飯盛女は衰微した、と「新修名古屋市史」にはある。ちなみに、「百花(もか)」とは、いわゆる私娼であり、名古屋の方言である。非公認の遊女ということになるのだが、
公認の飯盛女とは全く別格の存在であった。こうした現状を憂慮したのは、風紀の乱れを嫌う尾張藩であった。文化7年(1810年)、藩令を発して、取り締まりにあたっている。
また、飯盛女の税金の負担を重くしたという。この税金については嘉永2年(1849年)から5年間、熱田宿とお隣りの鳴海宿の飯盛女が納めた銀は180両とある。
ちなみに、嘉永2年当時の銀1両あたりの貨幣価値は3万876円とされているので、180両は555万7千680円ということになる。
明治期には港区の
稲永新田へ移動した
やがて明治維新を経て、明治6年(1873年)2月になると、「県告諭」を発して遊女解放の令が下る。自主的に廃業する者も多かったが、翌年には再び貸座敷業、
娼妓として再設置を許されたとある。明治42年(1909年)になると、人物の往来が頻繁な国道周辺に遊廓は好ましくないとの判断があり、当時の県知事、
深野一三が移転命令を出すに至った。最盛期の熱田の遊廓は貸座敷数38軒、娼妓数は300名ほどがいたというが、この令に従う形で大正元年(1912年)3月には、港区稲永新田に移っていった。
しかしながら、38軒中、稲永新田に移ったのはわずか4軒、娼妓数28名にとどまったと「新修名古屋市史」にはある。稲永新田には、大須にあった旭廓より移転した楼もあり、
当時、疑獄事件にも発展したこともあって、難産の末の遊廓移転だったと想像できる。こうして、熱田の遊里はその歴史に終止符を打つことになったが、折しも富国強兵政策のもとで
界隈は埋め立て地となり、近代工業地帯として発展を遂げていく。戦災や天災を経て現在、熱田宿の面影をとどめる建物は極めて少ない状況であるが、かつてこの地で遊里があったことは紛れもない事実だ。