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【2010.9.9】

温故知新シリーズ17旧遊郭地帯を訪ねて…


愛知県の特殊飲食街

闇の戦後史

昭和20年(1945年)8月15日。太平洋戦争が終結。愛知県は名古屋市をはじめ、多くの都市や町が
空襲の被害を受け、壊滅的な状況の中、混乱の時代を迎えたことはすでに何度かお伝えした。
今回はその戦後の混乱期の風俗営業についてお伝えしよう。
 

犬山市「桜楽園」
旧犬市「桜楽園」と思われる場所。
地元の人もかつての存在を知る人は少ない

『国際享楽ナゴヤクラブ』

設立への活発な動き


 さて、本シリーズ15「旧赤線地帯」で少し「特殊飲食街」について触れたが、資料を収集していくうちに次々と当時の規模などが分かってきた。
 「特殊飲食街」誕生の経緯についてはこのシリーズ15で詳しく書いているので、今回は割愛させていただくが、愛知県下における「特殊飲食店」の営業の実態については、少し説明が必要なので記しておこう。
 そもそも、戦後における「享楽営業の復活」については、1945年8月18日、終戦のわずか3日後の8月18日に内務省が「外国軍駐屯地における慰安施設設置に関する内務省警保局長通牒」を各県に発令したことに端を発している。
 この通達を受け、愛知県でも連合軍の慰安所開設に向けての動きが活発になっていく。『敗戦時全国治安情報 第5巻』(粟屋憲太郎/川島高峰編集・解説 )によれば、昭和20年(1945年)9月、愛知県知事への調査報告書として以下のような記述が見られる。
『連合軍進駐に対する慰安所開設に関して、有力者5名が『国際享楽ナゴヤクラブ』(仮称)の設立を画し、ダンサー、女給、案内人の募集の為、名宝(元文ママ)四階に於て応募者の詮索に着手し、9月14日より17日の4日間で、ダンサー211名、女給219名、案内人250名の志願者あり』とある。
 愛知県も例外なくこうした「国策慰安所」を開設する動きをみせていたことを示す資料である。また、この報告書では、応募者の志望動機として

「 イ)外人に対する好奇心に基くもの 四〇%、
 ロ)享楽的職業に憧憬するもの 二〇%、
 ハ)良好なる待遇宣伝に眩惑されたるもの 二五%、
 ニ)家計困難に因るもの 五%、
 ホ)その他 一〇% 」

であった。
 この内、イ)ロ)は「比較的年少にして未婚」の者が多数を占め「裏面的淫売行為を暗黙裡に是認しおりと認められる者約二〇%」であり、ハ)ニ)は「既婚婦人及経験者等にして大体売淫行為」とある。当時の世相を反映したものといえそうだが、東京で同年8月に開設された「小町園」の女給、ダンサー募集においても慰安所での売春行為については、大々的に宣伝がなされなかったことから、同様に愛知県下でもそのことを伏せてこうした募集をしていたことがうかがえる。


内務省の通達により警察署長が設立・運営


 こうして終戦後わずか1ヶ月の間に着々と愛知県下でも「国策慰安所」を作る動きをみせていたわけだが、『愛知県警察史第3巻』(愛知県警察史編集委員会編集 昭和50年刊)によれば、連合国軍の県内進駐に対し、昭和20年(1945年)9月18日に愛知県副知事を局長とする「愛知県渉外事務局」を設置している。この局を中心に警察の関係部課が協力して進駐軍の受け入れや接遇にあたったと記載がある。
 なぜここで愛知県警が出てくるのかといえば、この「国策慰安所設置」の通達が「橋本内務省警保局長」の名で各府県知事にあり、その中で「外国駐屯軍慰安施設等整備要領」として、

一、(省略)
ニ、前項の区域は警察署長に於いて之を設定するものとし日本人の施設利用は之を禁ずるものとす
三、警察署長は左の営業に付ては指導を行ひ設備の急速充実を図るものとす
  (性的慰安施設 飲食施設 娯楽場)

以上のような内容が書かれていたためである。
 そして、ここからは資料がないので、憶測の域になるが、もともとこうした慰安所や遊廓の経営に明るくない愛知県内の警察署長が、前述した「有力者5名」(おそらく名古屋市内にあった遊廓などの経営者)に協力を求めた形で『国際享楽ナゴヤクラブ』の設立、運営を図ったと考えるのが自然ではないだろうか?


碧南市「衣浦荘」
碧南市の衣浦温泉にあった旧「衣浦荘」界隈。
昭和の雰囲気が色濃く残っている

進駐軍の駐屯地と

慰安所設置の関係


 そして迎えた昭和20年(1945年)9月26日、米極東軍第六軍ブラウン代将以下20名の視察団がジープで来名したのを皮切りに、10月20日には輸送指揮官ケリー大尉の指揮により、350名が和歌山から安城駅に到着。宿舎の岡崎海軍航空隊に入った。こうして、愛知県内には昭和20年10月の時点で、駐屯地合計24箇所、約2万8千人の兵士が駐留していた。
 当時、これらの駐屯地には「国策慰安所」へとつながる場所が散見される。その場所を挙げてみると、「鷹来造兵廠」、「鳥居松造兵廠」(ともに春日井市)、「小牧飛行場」、「小牧幼年学校」(ともに小牧市)、「犬山ホテル」(犬山市)、「蒲郡ホテル」(蒲郡市)、などがその駐屯地であった。
 昭和20年~23年にかけての「特飲街」はこうした根拠地によるところが大きいが、当時の愛知県警が把握していた営業地帯は別表を参照にされたい。
 またこの時期、進駐軍向けのこうした「享楽営業」だけでなく、国内、日本人向けの料理店や遊廓なども再開に向けて動きが始まっていた。この年の11月には閣議で「戦後再建に関する緊急施策に関する件」を決定。こうして「享楽営業の再開許可」を各府県に指示しており、遊廓や料亭などの営業が再開された。


短命に終わった「国策慰安所」とその後の赤線地帯消滅まで


 終戦直後の8月27日、東京、大森の「小町園」の開設により、連合軍相手の「国策慰安所」が各地で続々と開設されたが、その運営期間は短かった。
 1946年(昭和21年)1月21日、GHQ最高司令官アーレン大佐の名で「非民主的で婦人の人権を侵害する」という理由で「公娼廃止」の通達が下され、占領軍司令部は「公的売春」の全面禁止を命じたからである。しかし、これは表向きの理由とされている。
 『敗者の贈り物(特殊慰安施設RAAをめぐる占領史の側面 』(ドウス 昌代著 講談社文庫) によれば、占領軍内部では、急速に性病患者が増加したことに加え、本国にこうした慰安所が各地にあることを知られ、出征兵士を待つ家族会の懸念や風紀の乱れを嫌う軍人会からの苦言があったことが記されている。これが「国策慰安所」廃止の最大の理由であると同書にはある。
 その後の「国策慰安所」は連合軍兵士が登楼を禁止された影響で、経営は思わしくなくなった。また、こうした特殊飲食街を取り巻く環境も、連合軍司令部の意向により、年々厳しくなっていった。
 まず、昭和22年(1947年)1月、「婦女に売淫させた者等の処罰に関する勅令」が発布された。これは売春させることは禁ずるが、売春行為そのものを禁止するのものではなかった。しかし昭和23年(1948年)9月には「風俗営業取締法」が施行され、昭和29年(1954年)5月には議員立法「売春禁止法案」が提出された。そして、昭和31年(1956年)5月「売春防止法」が成立。実施は翌、昭和32年(1957年)4月1日からだったが、取締の発効は昭和33年(1958年)4月1日からであった。
 こうして、日本から「赤線地帯」は姿を消した。

CHECK POINT
カフェー(いわゆる特殊飲食店)の営業地帯形成状況
 当時の県下における営業地域の形成状況(所在地は旧市町名のまま)

カフェー営業状況」

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